消費者金融の起源とは?質屋から無担保融資への転換
現代の消費者金融という仕組みが生まれる前、日本で庶民の金融を支えてきたのは質屋でした。物を担保にお金を借りられる質屋は、遣唐使の時代に中国から渡ってきたとされ、当初は「土倉」と呼ばれて造り酒屋などが兼業していました。
江戸時代に入ると質屋は急速に普及します。1723年の記録では、正式な営業許可を得た質屋だけで2,731戸が存在していました。もぐりの店も含めれば、その数はさらに多かったといわれています。三井財閥や鴻池財閥のように、質屋から大きく成長した企業もあり、質屋は江戸時代の庶民金融の中心でした。
明治時代に入っても、質屋は1960年代頃まで小口金融の主役として機能していました。しかし、その後の高度経済成長期を境に、質屋は急速に衰退していきます。
質屋が衰退した背景
| 時代背景 | 影響 |
|---|---|
| 高度経済成長期の到来 | 商品サイクルが短くなり、数年前の製品が価値を失う時代に |
| 三種の神器の普及 | テレビ・洗濯機・冷蔵庫などの家電が急速に家庭に浸透 |
| 物の価値の変化 | 古い商品を預かって売る質屋の仕組みが成り立たなくなる |
質屋は物を担保にお金を貸すため、その物に一定の価値がなければ成り立ちません。しかし高度経済成長によって商品サイクルが急速に短くなり、古い製品はあっという間に価値を失うようになりました。質草として預かった品物が、数カ月後には無価値になってしまう状況では、質屋のビジネスモデルは維持できなくなったのです。
無担保融資という新しい仕組み
質屋の衰退と入れ替わるように登場したのが、担保を「物」ではなく「個人の信用」に置き換えた融資の仕組みでした。この転換は、日本の小口金融の歴史において大きな転換点となります。
この新しい融資の形態では、物を預ける必要はありません。その代わり、安定した収入があるかどうか、返済能力があるかどうかといった、本人の信用情報が審査の基準になりました。現代の消費者金融につながる、この無担保・無保証の融資システムが広がり始めたのです。
団地金融の誕生とサラリーマン金融への展開
無担保融資の先駆けとなったのは「団地金融」と呼ばれる仕組みです。1960年代、高度経済成長期の象徴だった団地に着目した事業者が現れました。
当時の団地は、風呂やシリンダー錠といった最新設備を備えた住まいで、入居するには厳しい審査をパスする必要がありました。このため団地に住んでいる人は、一定以上の収入があると判断できたのです。特に団地に住むサラリーマンの妻たちが、主な融資対象となりました。
当時の家庭では、夫から給料を全額預かって家計を管理するのは妻の役割でした。もしやりくりに失敗して赤字が出たとしても、できれば夫には知られたくないものです。団地金融は、この心理を利用して「夫に内緒の借金」に限定して融資を行いました。家計管理者としての責任感から、主婦たちは必死に返済しようとしたのです。
サラリーマンへの融資拡大
団地金融の手法は、やがてサラリーマン本人への融資にも応用されていきます。1960年代から70年代にかけて、「勤め人信用貸し」「サラリーマン金融」と呼ばれる融資が広がりました。
- 融資対象は一流企業の社員や銀行員、公務員が中心
- 安定した収入があることが前提条件
- 当初は高いステータスの象徴とされた
- 使途は交際費や接待費など、サラリーマンの必要経費が多かった
この時代のサラリーマンは、会社の付き合いや接待に多くの費用を使う必要がありました。妻から渡される小遣いだけでは足りず、その不足分を補うために融資を利用したのです。当時の感覚では、借金をしてでも交際に励むサラリーマンこそ、出世すると考えられていました。
個人信用情報機関の登場
無担保融資を支える重要な仕組みとして、個人信用情報機関が1970年頃から整備されていきます。当初は業者同士で顧客のブラックリスト情報を交換するという原始的なものでしたが、1972年には大阪でレンダースエクスチェンジという組織が本格的に設立されました。これが現在のJICC(日本信用情報機構)などにつながっています。
急成長と社会問題化
1970年代に入ると、サラリーマン金融、通称「サラ金」は急速に規模を拡大していきます。その背景には、日本経済全体が貯蓄超過の状態になったことがありました。
高度経済成長期の前半は、銀行が集めた預金は重化学工業などの基幹産業に優先的に回されていました。しかし1970年代になると、企業は自己資金で設備投資できるようになり、銀行から借りる必要が減っていったのです。一方で、戦後のベビーブーマーが働き盛りになり、将来のために熱心に貯蓄するようになりました。
貸し出し先が減っているのに預金は増える。この状況で、銀行が新たな貸し出し先として見つけたのがサラ金でした。銀行からの資金調達が可能になったサラ金は、さらに融資規模を拡大していきます。
審査基準の緩和と問題の深刻化
| 1970年代前半まで | 1970年代後半以降 |
|---|---|
| 一流企業の社員が中心 | 中小企業の社員、自営業者、主婦にも拡大 |
| 比較的少額の融資 | 規模拡大競争により融資額増加 |
| 限定的な顧客層 | 審査基準の大幅な緩和 |
規模を拡大するため、サラ金各社は審査基準を大幅に緩和しました。所得の低い層にも融資を広げた結果、返済できない人が増えていきます。厳しい取り立てにより、自殺者や家出人が続出する「サラ金地獄」と呼ばれる社会問題が深刻化しました。
問題の背景には、大数の法則に基づいたリスク管理がありました。貸し倒れを確率として織り込み、団体信用生命保険で損失をカバーする仕組みです。顧客が自殺しても保険金で回収できるため、従業員の中には顧客の自殺を歓迎する雰囲気さえ存在したといわれています。
規制強化と業界の変化
社会問題化を受けて、1983年に貸金業規制法が制定されました。出資法の上限金利も段階的に引き下げられ、当初は年109.5%だった上限が、1991年には40.004%まで下がりました。
規制強化により、サラ金業界は一時的に「冬の時代」を迎えます。しかし、バブル崩壊後は無人契約機の導入などで再び成長しました。2000年代に入ると、大手消費者金融の経営者が長者番付の上位を独占するほどの繁栄を見せます。
グレーゾーン金利の問題
この時期、利息制限法の上限(年15~20%)と出資法の上限(年29.2%)の間の金利、いわゆるグレーゾーン金利が問題となりました。多くの消費者金融は出資法ぎりぎりの金利で貸し付けていましたが、本来は利息制限法の範囲内の利息しか支払う必要がなかったのです。
この差額が「過払い金」として、後に大規模な返還請求につながっていきます。2006年の貸金業法改正により、グレーゾーン金利は廃止され、出資法の上限も年20%に引き下げられました。
現代の消費者金融
厳しい規制と過払い金返還の影響で、2010年代の消費者金融業界は大きく変化しました。現在では、大手消費者金融のほとんどが銀行の傘下に入っています。
一方で、総量規制の対象外である銀行カードローンが台頭しました。消費者金融は貸金業法により年収の3分の1までしか貸せませんが、銀行法が適用される銀行カードローンにはこの制限がありません。このため、銀行カードローンが急速に拡大しましたが、これも新たな多重債務問題を引き起こす懸念が指摘されています。
質屋から無担保融資への転換は、約100年の時間をかけて進んできました。物を担保とする融資から個人の信用を基にした融資へ。この変化は、日本経済の成長と社会構造の変化を反映したものであり、現代の金融システムの基礎を形作っています。