本能寺の変の真相~明智光秀はなぜ主君を討ったのか
天正10年(1582年)6月2日の早朝、京都の本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣の明智光秀によって襲撃され、自害に追い込まれました。天下統一を目前にした信長の突然の死は、その後の日本の歴史を大きく変えることになります。しかし、400年以上が経過した現在でも、光秀がなぜ主君を討ったのか、その真相は明らかになっていません。
本能寺の変は、単なる謀反という言葉では片付けられない複雑な背景を持っています。信長は当時、全国の半分近くを掌握し、東北の伊達氏から九州の島津氏まで、多くの大名が従属を表明していました。そんな絶頂期の信長を、なぜ光秀は討つ必要があったのでしょうか。
事件当日の状況~わずかな手勢で京都に滞在していた信長
本能寺の変が起きた当時、織田家の主要な武将たちは全国各地に散っていました。羽柴秀吉は備中で毛利氏と対峙し、柴田勝家は北陸で上杉氏とにらみ合い、神戸信孝は四国征伐の準備を進めていました。信長自身も中国への出陣を控えており、わずかな小姓衆だけを連れて本能寺に滞在していたのです。
一方、光秀は近畿一円に政治的・軍事的基盤を持ち、丹波・近江・山城に直属の家臣を抱え、さらに細川藤孝や筒井順慶などの与力大名も従えていました。織田軍団の中で、信長の近くにいる有力武将は光秀だけという状況でした。信長を討とうとする者にとって、これは千載一遇の好機だったといえます。
江戸時代から語られてきた「怨恨説」の真偽
最も古くから語られてきたのが、光秀が信長への恨みを晴らすために謀反を起こしたとする説です。江戸時代に書かれた『川角太閤記』や『祖父物語』には、信長が光秀を人前で侮辱したというエピソードがいくつも記されています。
代表的なものとしては、徳川家康の接待役を任された光秀が、用意した料理が腐って悪臭を放っていたため、信長に激怒されて役を解任されたという話があります。また、甲州征伐の後、諏訪で光秀が「苦労した甲斐があった」と述べたところ、信長が「お前に何の功があったか」と怒鳴りつけ、光秀の頭を欄干に打ち付けたという逸話も伝わっています。
| 出来事 | 内容 | 出典 |
|---|---|---|
| 接待役の解任 | 家康の接待で用意した料理が腐敗し、信長に叱責されて役を解任された | 『川角太閤記』 |
| 諏訪での侮辱 | 甲州征伐後の祝賀で光秀の頭を欄干に打ち付けられた | 『祖父物語』 |
| 母の死 | 光秀が人質に出した母が、信長の約束違反により処刑された | 『総見記』 |
しかし、これらのエピソードはいずれも本能寺の変から数十年以上経過した後に書かれた軍記物が出典であり、同時代の信頼できる史料には記録が残っていません。むしろ、本能寺の変の半年前に光秀が茶会で信長直筆の書を掲げていたことから、直前まで両者の関係は良好だったと考えられています。江戸時代の儒教的価値観の影響で、暴虐な信長像が作られ、それに耐えかねた光秀が怨恨を晴らしたという物語が後世に創作された可能性が高いのです。
天下への野望か~光秀の真意をめぐる議論
戦後、歴史学者の高柳光寿氏が、光秀の動機は怨恨ではなく天下を狙う野望だったとする説を提唱しました。織田家譜代の家臣ではなかった光秀が、能力によって重臣の地位にまで上り詰め、「近畿管領」とも呼べる立場を手に入れ、信長に次ぐナンバーツーという自負が芽生え、自らが天下人になることを目指したのではないかというわけです。
確かに光秀は、近畿一円に強固な基盤を持ち、朝廷とも深い関わりを持っていました。しかし、この野望説には大きな疑問が残ります。もし天下を取るつもりだったのなら、なぜ事前に周到な根回しをしなかったのか。本能寺の変の後、光秀は主要な大名たちへ協力を呼びかけますが、ほとんど応じてもらえませんでした。天下を狙うにしては、あまりにも無計画だったのです。
四国政策の破綻が引き金に~近年注目される説
近年の研究で注目されているのが、信長の四国政策の変更が光秀を追い詰めたとする説です。当初、信長は四国の長宗我部元親に対して「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」という朱印状を出し、四国統一を認めていました。この交渉の取次役を務めていたのが光秀であり、光秀の家臣である斎藤利三の姻戚が元親の正室という深い関係がありました。
ところが、信長は突然方針を変更し、元親に対して土佐一国と南阿波二郡以外は返上せよと命じます。三好康長ら別の勢力との調整を優先したためでした。元親がこれを拒否すると、信長は神戸信孝を総大将とする四国征伐を命令し、本能寺の変の翌日には四国に渡る予定でした。
- 光秀は元親との取次役として、何度も説得を試みたが失敗に終わった
- 信長の政策変更により、取次役としての光秀の面目は完全に潰された
- 四国征伐が実行されれば、光秀の立場はさらに悪化する可能性があった
- 姻戚関係にある元親が滅ぼされれば、光秀自身も連座する危険があった
このように、四国問題は光秀にとって単なる外交上の失敗ではなく、自身の存在意義に関わる深刻な事態だったのです。
信長の政策転換が光秀を追い詰めた可能性
本能寺の変を理解する上で重要なのは、光秀だけでなく信長の側の事情も考察することです。宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、信長は最晩年に安土で自己神格化を試みていました。安土城で祭典を行い、自身の誕生日を祝祭日と定めるなど、天から選ばれた特別な存在として自らを位置づけようとしていたのです。
研究者の中には、信長が実力主義から親族優遇策へと政策を転換しつつあったと指摘する人もいます。三男の神戸信孝を四国征伐の総大将に任命したことは、その兆しでした。全国統一後は領地を息子たちに分割支配させるという構想を持っていたとすれば、織田家の血を引かない光秀のような重臣は、いずれ排除される運命にあったかもしれません。
興味深いことに、羽柴秀吉は天正4年に信長の子である於次丸を養子に迎えており、親族優遇策に移行した後も生き残れる立場を確保していました。しかし、光秀にはそのような備えがありませんでした。光秀の妹で信長の側室だった「御ツマキ」が本能寺の変の前年に病死したことで、光秀は有力な情報源も失っていたのです。
光秀が本能寺の変を起こした複合的な理由
現代の研究者の多くは、本能寺の変には単一の原因ではなく、複数の要因が絡み合っていたと考えています。四国政策の破綻、信長の政策転換への不安、自身の地位の危うさ、そして千載一遇の好機が重なった結果、光秀は謀反という決断を下したのでしょう。
光秀は本能寺の変の直後、畿内の諸将に「信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候」という書状を送っています。これは単なる大義名分かもしれませんが、天下統一を目前にした信長が、幕府を滅ぼし、朝廷や寺社、諸大名に威圧的になっていたのは事実です。光秀なりの正義感が、謀反を正当化する理由の一つになっていた可能性もあります。
| 要因 | 内容 |
|---|---|
| 四国政策の破綻 | 取次役としての面目を失い、姻戚関係にある長宗我部氏が滅ぼされる危機 |
| 信長の政策転換 | 実力主義から親族優遇へ。光秀が排除される可能性 |
| 情報源の喪失 | 側室だった妹の死により、信長の意向を把握できなくなった |
| 絶好の機会 | 信長と信忠が同時に警備の手薄な京都に滞在 |
| 大義名分 | 信長の「悪虐」を止めるという正義感 |
変の後の光秀の行動から見える真意
本能寺の変の後、光秀はわずか11日間で羽柴秀吉に敗れ、命を落としました。この短期間の光秀の行動を見ると、天下を取るという明確な野望があったとは考えにくいのです。光秀は各地の大名に協力を呼びかけましたが、ほとんど応じてもらえませんでした。
その理由の一つは、信長の遺体が見つからなかったことです。光秀は本能寺の焼け跡を捜索させましたが、遺体は発見できませんでした。このため、信長生存説が流れ、多くの武将が様子見の姿勢を取ったのです。もし光秀が周到に計画を立てていたなら、信長の首を確保することの重要性を理解していたはずです。
また、光秀が本能寺の現場には行かず、京都の南に位置する鳥羽で指揮を執っていたという説もあります。江戸時代前期の『乙夜之書物』という書物には、実際の襲撃は重臣の斎藤利三と明智秀満が率いた2000余騎が行い、光秀は約8キロ離れた鳥羽に控えていたと記されています。これが事実なら、光秀は最後まで謀反を躊躇していた可能性もあるのです。
現代に残された謎~真相は永遠にわからないのか
本能寺の変から440年以上が経過した現在でも、光秀が謀反を起こした決定的な理由は解明されていません。同時代の史料が限られており、光秀自身が真意を語った記録も残っていないからです。そのため、さまざまな説が提唱され続けています。
興味深いのは、光秀が本能寺の変を起こすちょうど1年前に定めた『家中軍法』の末尾に、信長への感謝の言葉が記されていることです。「水に沈む瓦礫のように落ちぶれた身分であった私を召し抱え、たくさんの軍勢を預けられた。粉骨して忠節に励めば、主君にも伝わるだろう」と書いており、この時点では光秀は信長に恩義を感じていたことがうかがえます。わずか1年の間に、光秀の心に何が起きたのでしょうか。
黒幕説の真偽~光秀は操られていたのか
本能寺の変には黒幕がいたとする説も根強く残っています。朝廷が権力を回復するために光秀を操ったとする朝廷黒幕説、羽柴秀吉が事前に知っていて光秀を利用したとする秀吉黒幕説、徳川家康が関与していたとする家康黒幕説など、枚挙にいとまがありません。
しかし、これらの黒幕説を裏付ける確実な証拠は見つかっていません。秀吉の中国大返しのスピードや、毛利氏との和睦の手際の良さから、秀吉が事前に変を知っていたのではないかという推測はありますが、あくまで状況証拠に過ぎないのです。
本能寺の変が日本の歴史に与えた影響
結果として、本能寺の変は日本の歴史を大きく変えました。信長が生きていれば、日本の統一はもっと早く、そして違った形で実現していたかもしれません。しかし、信長の死によって羽柴秀吉が台頭し、豊臣政権が誕生します。そして秀吉の死後、徳川家康が天下を取り、江戸幕府が260年以上続く長期政権を築くことになるのです。
光秀の謀反がなければ、日本の戦国時代はまったく違った展開を見せていたでしょう。その意味で、本能寺の変は日本史における最大の転換点の一つといえます。そして、その真相が明らかにならないからこそ、400年以上経った今でも多くの人々を魅了し続けているのです。
明智光秀が本能寺の変を起こした理由は、おそらく一つではなく、複数の要因が複雑に絡み合っていたのでしょう。四国政策の破綻、信長の政策転換への不安、自身の立場の危うさ、そして何より、信長父子が同時に警備の手薄な京都にいるという千載一遇の機会。これらすべてが重なった時、光秀は謀反という道を選んだのかもしれません。真相は歴史の闇の中ですが、だからこそ本能寺の変は、今なお私たちの想像力を刺激し続けるのです。